昭和47年7月23日 月次祭
中村良一
(途中から)させて頂いて、お徳を、身にも、または、家にも受けて、おかげを受けると言うことが、神様の願い、そして、また、私共の願いでもなからなければなりません。ですから、願いが、その様に、神様と私共、または、なかに、金光大神が取り次いでくださる、その願いというものが、一貫しておらなければいけない。神様の願いと、私共の願いと、金光大神が、そのことを取り次いでくださる金光大神の願いとが、一貫したおかげを頂く。それは、私共が、信心して、神徳を身に受けると事だと。ですから、もう、神徳を受けることと、まぁ、言うてしまえば、それまでですけれども、受けるまでが大事にしなければならない。
ある方のことを、今日、私、お願いさせてもらいよった。えらい、信心も出来、おかげも頂いて、少し、この頃、ちっとおかげを頂き過ぎて、信心が緩んでる。この、こう言うタイプの人がお徳を受けていくんだなぁと、思うておったところが、人間というものは、それこそ、何て言うですかね、あまよ心というか、または、いつぞや、光昭が申しておりましたように、楽なほうへ、一歩、足を踏み入れたら、なかなか、これではいけない、これではいけないと思うても、やはり、楽なほうへ楽なほうへと、こう、傾いていくんだという事。だから、そこんところを、大事にしなければならないと言う意味の事を、自分の体験からでしたでしょうね、申しておりましたように。その方の事を、お願いさせてもらいよったら、もう、それこそ、何て言うでしょうかね。あの、吊るし柿ですはね。吊るし柿の、ぶったりしたような、もう、それこそ、味は大和の吊るし柿というのは、こういうものではなかろうかと、まぁ、白粉を吹く前の、もう、ぶったりした様なね。もう、それはもう、甘さといい、食べ具合、その、加減といい、なんとも言えん様な、その、柿を、いかにも美味しそうにね、頂いておるところを頂いたんです。だから、お徳を頂いていくという、その過程の中にです、ね。今度は、おかげを落とさせようと言う訳ではないでしょうけれども、それを、いよいよ、確固たるもの、本当なものにさせて下さろうとする働きのある事を、お互い知らなければいけない。もう、本当にあの、珍しい心の状態も良い心栄えも良い、御用も出来る。信心も熱心。ところが、人間、誰しも、おかげを頂いて、ははぁ、こら、自分でも、これがお徳だろうかと、やっぱ、感じよるだろうと、こう思うです。ね。そして、あれが成就し、これも叶うと言うように、おかげを頂いていっております。お話を聞くと、いうなら、おかげ話が、なんとも言えん、素晴らしかねというようなおかげを受けておる。ところが、人間は、そのころになった頃からです。いわゆる、片足を、楽なほうへ突っ込む訳です、ね。それで、これではいけない、これではいけないと言いながら、その、吊るし柿のね。その、ぶたぶたした様な、吊るし柿の味に、ほだされてね、そちらの方へ、こう傾いていきよるという事になったら、とうとう、徳になりかけておって、徳にならんじまいになるという事じゃないでしょうか。徳と言うのは、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけると言う、何時まで置いても、悪くならないというもの。あれが、干柿にならなければいかん。本当の干し柿に。ね。これは、何時まで、何年置いてもいいでしょう。ところが、その、いうならば、皮をむかれて、吊り下げられて、渋がぼたぼた落ちる時は、なるほど、辛いけれども、そのこと自体が、神様へ、心を、いよいよ、向けていく、いよいよ神様のご信用を、いよいよ、厚うしていく、その過程である。吊り下げられておる時に、渋が、ぼたぼた落ちるような時、もう、今こそ、あくが抜けて、抜け抜いて行きよる時である。こういう信心の所が大事なんだ。だから、そこを通っておる人もあれば、もう、これは、ごく稀ですけれども、もう、その渋も抜けて、そして、このまま置けば、徳になるぞという一歩手前ぐらいの所でです。楽なほうへ、足を突っ込んでいきよる。ね。その、それこそ、味は大和の吊るし柿という様な、味わいを、今、味おうていきよる訳。徳というもんな、そんな味わいのもんじゃない。ね。ただ、美味しい、美味しいと言うだけのものじゃない。そうすると、そこまで来とりながら、干柿にならんなり、徳にならんなりに、終えなければならんという事になるのです。私は、そういうのが、多いと思うのです、ね。信心の徳と言うのは、そこんところを、一つ、辛抱し抜かせて頂いてです。ね。おかげを頂いて有難い、有難いと言うものがです、ね。苦しいから、一生懸命の修行させて頂いておった時以上のです。有難いから、なおさら、修行させてもらう。だからこそ、なお、お参りをもさせて貰う、御用にも打ち込ませて頂くという様な信心が、その辺から頂かなければいけない時なんです。ね。過程である。
皆さん、どういう風に思うですか。今こそ、ね。皮をむかれて、渋が、ぼとぼと落ちよる時じゃなかろうかと思うような人もあろうと思う。今こそ、皮をむかせて貰いよる時じゃなかろうかという様な時もあろうと思う。ね。段々、信心の徳を受けて、ははぁ、こげんとが、お徳ち言うとばいなと、自分でも思うように、おかげを頂いていきよる方もあろうかと思うけれどもです、ね。とにかく、そのところの、時点、時点を、いよいよ大事に、修行の心をもって、頂いていかなければならないという事。ね。だから、そういう信心を、いよいよ、身に付けさせて頂く、一つの焦点というか、と言うものが、どこに置かれたら良いだろうかと。
今日は、椛目の、康子の三十日祭でございました。もう、一月になります。有難いなぁ、何時も、本当に有難いなぁと、私は、もう、思うんですけれどもね。二十日祭もそうでしたが、三十日祭も、今日、ちょうど日曜でした。この前は、勝美さんが、学校のほうが、何かでお休みでした。もう、本当に、神様のご都合というか、あの、お国替えをするでも、生れるでも、もう本当にあの、いうならば、御霊様が、その、主人、勝美さんを中心にしておられたという様な感じがしますね。ね。一時の御祈念を終わらせていただいてから、すぐ参りました。それから、ま、午前中に準備が出来ておりましたから、若先生が祭主を努めて、博美先生が副祭主を努めてくれました。まぁ、本当に、集まらなければならない人だけは、みんな集まって、もう、それこそ、段々、苦しいとか、悲しいとかが、有難いに、段々なってきておるというお祭り。そのお祭りを仕え終わってから、若先生が、皆さんに、一口お話をしておりました。今日の御霊の祭主を仕えさせて頂いて、段々、御霊様がおかげを頂いておるという状態を、自分の心に感じたままを話しておりました中にです。今日は、康子、今朝の一時のね、夏季修行があっおると、その御理解に、この様な御理解を頂いたよと言うて、今日の一時の御理解を、御霊様に、話すように話させて頂いた。そしたらもう、神願とも、思わせともつかないですけれども、もう、生前の、ニコニコとした顔で、はぁ、そうですか、初めて聞いたと、始めていただいた御理解ですねと言わんばかりに、こうやって、合点しておられるところを頂いたんです。ね。親先生が、何時も、和賀心、和賀心と、もうとにかく、和賀心時代を世界に広めなければならない。先ず、私共が、一人ひとりが、その和賀心の、権利者というかね、維持者というか、それを、本当に、自分のものにしていく事のために、本気で、信心の焦点を、そこに置いて信心しなければならないよという事を、これは、御霊ながらも、やはり、ここんところへ精進しなければならないという意味の事を、まぁ、御理解をしたわけですね。
そして、今日、なるほど、ここが、和賀心を頂かせて頂く事のための、ポイントになるところだなというところは、今日、色々頂きました通り、ね。人間の心のなかにはね、もう、底の底に、人間が、幸福になりたいと言う一念は、誰しも持っている。しかもね、人間が、本当に幸福になるためには、自分の心の状態がです。いつも、にこやかで、何時も、有難い有難いと言うておれれるようになる事だと、みんな、知っておると。自分の命が知っておると。ね。いいや、金、いいや、もの、健康と、例えば、言うておるけれども、そういう人達でもです。本気でですね、本当言うたら、そうじゃないんだと。本当言うたら、心なのだ、自分の心が、いつでも、どんな場合でも、にこやかにしておれれる、豊かな心でおれると言うことが、人間の幸福だという事は、お互いの、命自体が、それを知っておるということ。ね。けれどもね、その、例えば、心の底にある、そういう心の状態、心がです。そんならば、何時も、にこやかにしておられると言うか、和賀心でおれるという事は、もう、至難も、この上もない至難な事だと思って、もう、それに手を付けようともしていないと言うのが、ほとんどの人間の状態ではなかろうかというのが、今日の一時の御理解でしたね。ま、そういう意味の事でした。もう、本当にね、金だけじゃいかん、ものだけじゃいかん。問題は、自分の心だという事をです。もう、本当の命が知ってるんです。本当は。けれどもです。それは、とても、人間では出来ることではない。だから、場合には、根性の悪いことも言うたり、汚いことも言わなければ、自分の場というものが、いわば、無視されるような気がする。幸福の座から追われるような気がする。そこで、金だ、物だ、権力だという事になってくる訳である。その実は知っている、自分の心と言うものが。教祖生神金光大神という方は、そういう様な、人間の命の底にある。命が知っておる、そういう心の状態をです。誰でも、見やすう、気安うに、和賀心になっていけれる道を説かれたのが、教祖生神金光大神だという事なのです。ね。
だから、その道を与える。道を教えていけば、誰しもが、和賀心になっていけれるんだという事。本人も、そこに自覚が出来て、本気で、和賀心をもって、焦点とすると言う信心にならせて頂けばね。誰しもが、おかげが受けられるという訳なんです。けれども、それを、みんなが知らない。いいや、信心をさせて頂いておっても、そうだと分かっておっても、そこに、いよいよ、本気で、そういう事にならせて頂くという事にです。焦点を置かない限り、和賀心というものは、育つものではありません。ね。ですから、本気でそこにならにゃいかん。
今日、三橋先生が、前講で努めさせて頂いたんです。あちらへ下がってから、三橋先生と話したことじゃった。まぁ、今日の御理解は素晴らしかった、今日のお話は素晴らしかったばい。もう、信心しよるけん、もう、置いたものを取るように、素晴らしいタイミングのなかに、今日一日を過ごさせていただいたのも有難いけれど、あんたのように、一日がです、ね。もう、それこそ、すれ違い、すれ違いという様な中にです。これも神愛とは分かっておるけれども、それを、有難く受けられないところの、いうならば、信心の悩みというものを、今日一日、感じ続けさせて頂いて、まぁ、結論としてはです。有難うございますという事になったけれども、ね。これが神愛とは、分かりながら、ね。神様のご都合とは知りながら、どうにも出来ないと言う現状を、今日は、お話してました。だから、ね。その、置いたものを取るような素晴らしいタイミングの中にばかりあるという事ではありません。それがです、本当なお徳になっていくまでは、そうなのです。ね。まぁだ、吊るし柿のね、まぁだその、ぶたぶたち、例えばもう、本当、親先生が仰る通り、今日一日は、置いたものを取るごとございました。はぁ、神様が、ちゃんと待っておられるような状態でした。もう、あれがないと思いよったら、神様が、ちゃんとお繰り合わせを下さってという様な、おかげの時にはね、まぁ、いうならば、吊るし柿の、まぁだ、半乾きの所の、それこそ、味は大和の吊るし柿という様な味わいを味おうとる時じゃないでしょうか。ね。だから、そういう時には、いよいよ、警戒心が必要なんだ、ね。これでは危ない、ね。ですから、その干柿になる。もう、何時まで置いても悪くならない。もう、虫がつこうとしても、虫のつきようもないと言うほどしの所まで行った心の状態を、私は、御神徳だと思う。
だから、その御神徳を、お互いが、目指さなければならない。焦点を、何時もそこに、途中半端で、おかげを頂いておるというような事がです、ね。おかげを受けておるというだけに、甘えておっては、それは、吊るし柿の、ぶたぶたしよるとを頂きよる、味おうているようなもの。ですからこそ、その過程においてです、ね。信心しよって、どうして、この様な事が、という様にです。右と願えば左、左と願えば右というように、ね。その、まぁ、チンバ踏んだあり方というもの、ね。そういう状態の中に、私共が、教えを頂いておると、神様の、それがご都合であり、これも神愛であるという事を分からせてもらう。そこで、その神愛をです、神愛と分からせてもらうと言う。もう、その場で、実は、お礼が言えれるような信心を、段々、身に付けて行きたい訳であります。ね。
今朝、昼の、和賀心についてと言う、まぁ、和賀心という事は、もう、どれだけ説いても、説き尽くせない事でございましょうけれども、その、一つの考え、ね。ここに焦点を置くと言うような意味で頂いた。和賀心について、日頃、皆さんに聞いていただいておる通りの事を、書いたり、話したりしたんでは駄目だから、どういうところが、一番大事か。いや、和賀心になりたいと思うけれども、和賀心を邪魔する心というものをです、私は、先ず、先に発見することが大事だと思うたから、その事をお願いさせて頂いたらね。あの、何ち言うかね、虎のあの、面をかぶった、タイガー何とかて言う、漫画があってるでしょう。あら、何とか、・・・ね。マルショウの人達は知っとろうばってん。あれは、何て言う、タイガーマスクか、ね。あの状態を頂いた。それで、私は、すぐ、それから、ヒントを得たのですけれども。虎の威を借ると言う言葉があります。自分には、力が無いけれども、虎の皮を被っておるというのです、ね。いうならば、威張ると言うのです、人間が。ね。威張ると言う心がある間は、和賀心になろうとしよると、その和賀心が消えていくです、威張る心は。ね。お互いの心の中から、いよいよ、ね。私も、もう、大分、どうして出世したじゃ、私ももう、ええ加減おかげ頂いたと言うてね。その、何とはなしに、口には言わんけれども、態度で、ね。こう、現れてくる、威張っとる姿が。あぁ、見よっても見苦しいもんですよね。自分は、気が付かないけれど、ね。もう、この、威張る心はね、和賀心の邪魔になる心なのです。いよいよ、自分というものを見極めさせて頂いて、自分ぐらいなものに、この様なおかげを頂いてと言う、おかげでなからにゃいかん。私が、信心、こげな状態じゃけ、こげなおかげ頂くと言うところには、もう、慢心が出てくる、ね。威張る心が生れてくる。私ぐらいなものに、神様が、この様なおかげを下さってという所にです。ね。いつも、謙虚でおれると言うこと。
次にあの、バケツを頂いた。トタンのバケツ、ね。バケツと言うは、馬のけつという事を頂いた。馬のお知らせは、何時も、卑しい心と頂くから、しかも、卑しい馬の心の、それに、馬のけつという事じゃから、もう、いよいよ、汚いという事だろうと、こう思う。だから、私共が、和賀心になろう、和賀心になろうと思うてもです。私共の、浅ましい、汚い心が、ちょっと動いたら、もう、和賀心が消えていくんですよ。体験があるでしょう。ね。もう、食べ物に汚い人がある。金銭にとても汚い人がある。執着をする人が、ね。もう、実に浅ましい、汚い心というものがです。それは、限りなくあるのでございますけれども、そこの所を、本気で見極めさせてもらいながら、その汚い心、いわゆる、限りなく美しゅうなろうやという信心です。ね。そこに精進するという事。ね。言うならば、威張る心と、汚い、いわば、卑しい心、バケツと虎の威を借るといった様な心がです。自分の心の状態の中に、ある限り、和賀心というものを、せっかく、頂いても、有難いお話をいただいて、有難いなぁと思うても。おかげを頂いて、有頂天になるようなおかげを頂いても。それが、汚い心、威張る心で、また、消えていくと言うのですから。どうしても、これは、改まらなければいけないよという御理解を、今日は、一時の御祈念にいただいたと言うてね。その、御霊様に話しをさせて頂く様なつもりで御祈念した、若先生が。そしたら、わぁ、そげな話しは、今日、初めて聞いたちいう様な顔でね、まぁ、喜ぶ姿を見せたという事でございます。ね。これは、御霊様だけじゃない。私共、自体がです、本気で、そういう和賀心の、まぁだ、色々ありましょう、ね。和賀心の障害になる心を、私共が頂き、私共が、そういう心を取り除かせて頂く。もう、人間じゃけ、こんくらいの事は、当たり前というたら、もう、それから先は伸びないですよ。人間じゃき、こんくらいな汚いことは、そこで、心の中には、汚いものがあってもです。汚い、いわば、美しゅうなる振りぐらいさせてもらわにゃいけんという事。ね。
私は、昔の、まぁだ、華やかな時分にね、私は、もうその、自慢げが強いですからね、こう、人が来てから、(おったい?)に着替えになると、洋服ダンスの戸ば、こうやってから開いてから、その、ネクタイを沢山持っているわけですね。それを見せたい訳です。見せたいと言うよりも、その中から、一本、この人にやりたいと言う心があるんですよ。それで、はぁ、こら、良かなち、言うとをやることに決めておりました、私は。ね。こら、実際は、そら、ちった惜しかと思うのがあるんですよ。けれども、こら良かなと言うたら、ほんなら、そればもって帰らんねと言うてから、その、持たせてやった。そういう、私は、努力が要るのじゃないでしょうか。その後の、気持ちの良いことね。もう、こげなものは、私は要らんけん、あんたに上げる。そんなら、誰でんやるたいな。要らんけん、やるとじゃもん。ね。要るけれどもです。まぁ、汚い心が、これに伴うとるけれども、それを、晴らさせて頂くような、私は、信心修行からです。そういう、私は、稽古の生き方というかがあるんだと。
先日も、あの、大阪の先生方が、夫婦で見えられました。泉南教会の、大変なゴヒレイを頂いておられる教会。もう、それでいて、私より、一つ上だそうですけれども、私よりか、もう、本当に、十五も、二十歳も若いように、つやつやしてある。元気がある訳です。その先生の、この頃、一時の御祈念の時に、お話しになっておりましたですね。一番最後に、もう、とにかく、金光様のご信心は、一切を、有難く頂かせていただく以外には無い。それに徹することだと、信心とは。はぁ、私は、そこんところが素晴らしい。徹することなんだ、ね。あちらの地区に、人が、有難屋さんと、四股名をつけるぐらいに有難い、何でも、有難い有難いと言う人があった。ある時に、結婚式に呼ばれて、その帰り道に、紋付袴を着けて帰っておられるうちに、集中豪雨のようなのに合われた。雨にあわれた。もう、それこそ、雨しぼたれになって帰られた。もう、あの人がもう、なんでも有難い有難いち言うが、今日だけは、違わんごと、はぁ、今日は、しるしかったとか、しもた、紋付が濡れたち言うて、不平不足を言いなさるじゃろうと思うて、それを、けしかける様にしてから、こうは、おしるしありなさったでしょう、あーた、こら、折り詰めなんかは、こらもう、すたすたになるごつなってから、あーた、こら惜しかったですねち言うて、言うちからその、ほらもう、こら、しもたとか、困ったとかち、言わそうち思うてその、みんなが言うたけれどもね。その人は、いっちょん困ったとも、しるしかったとも言わっしゃらんかった。いやぁ、今日は、ありがたかったち言わっしゃったち。そるけん、何で、今日んごたる日が、ありがたかちか言うたら、ね。雨に濡れながらね、それこそもう、土砂降りの中を歩いてきながら、紋付も濡れた、袴も濡れた。折り詰めも、それこそ、濡れてしもうたけれども、しかし、有難いことだと思うた。これが、どうじゃろうか、自分の鼻が、もし、上どん向いてついとったなら、ね。もう、本当に今日は、窒息死しなければならないところを、ようもようも、神様が、鼻の穴を、下に向けておって下さると思うたら、それが有難かったち思うたち。ね。ですから、その、有難いと言うものを探そうとすれば、もう、なんぼでも、有難いものは、沢山あるわけなんだ。ね。けれどもね、私は、それは、あまりもの信心だと思うです。ね。それはそうです、そういう生き方に徹すれば、おかげは受けるけれども、ほんなら、私が、日頃、言うておるところの、これを、世界の市場に出そうと言うても、これは、一、笑い話にしか過ぎないことになってくるのじゃないかと思うのです。実を言うたら、そうじゃない。そういう、一切を喜ぶ心の上に、おかげはあるのだけれども。ただ、おかげだけではいけないという事。私共の、心の状態が、進まなければならないという事。それを、今日は、私共の、様々な過程の中に、ただ、有難い有難いで行けば、有難いおかげは受けられるけれども、世界の市場に出すのには、少し、お粗末過ぎると言う感じがします。それは、一つの笑い話にしか過ぎないことになる。実はそうじゃないけれど、ね。そこで、やはりです、私共がです。いわゆる、和賀心時代を作ると言う、そこの焦点をです、間違いなく。その、おかげを頂かせて貰うて、その和賀心に伴うて来るところのおかげであると言う、おかげで無からなければね。世界の市場には出されないと言う風に、私は、感ずるのです。ね。
そのためにはです、私共は、例えば、そうして、濡れなければならない状態の時に、鼻が上向いとらんで良かったと言う前にです。ね。やはり、濡れなければならない、そういうものを、自分の心のなかに頂いて、神様、相すみませんという、心からのお詫びが出来るような信心こそがです。信心を、一段、飛躍していくことのためになるのじゃないかというふうに思います。ね。もう、心からお詫びをする。例えば、今日の三橋先生の、右と願えば左、左と願えば右という様な、裏目裏目の一日であったけれども、神様の神愛であるという事が分かっておるだけではいけん。そこに、詫びる心が生れたらです。もっと、ましな、有難い。もっと深い意味合いにおいての、有難いが頂けたのじゃないかというふうに感じるのです。
私共が、本当に、おかげを頂いて、ね。どのような場合であっても、困らんで済む信心、ね。その、困ると言う心から、脱却して、そして、困らんで済むという心。これは、只今、有難いとお礼を申し上げる心のような場合であっても、お詫びをし抜かせて頂くという様な心からは、困ると言うような心は出てこない。そこから、脱却できる。言うなら、一段と、自分の心が、ね。言うならば、平屋から、二階に上がる。普通とは、次元の違った世界に住むことが出来る。そこをです、悔やまんで済む、私は、おかげじゃなかろうかというふうに思うのです。
昨夜も、私、聞いてもらったんですけれども、ね。「蚊も困る、蚊もまた困る団扇かな」と言う川柳がありますけれども、私共が、そこから、感じさせてもらうことはですね。嫁困る、姑も困る団扇かなという事になるのじゃないでしょうか。ね。親が困っておれば、子供も困るのです。ですからね、私共は、その困る世界から、例えば、困らなければならないゆおうな状態にあっても、御礼が申し上げられるとか、お詫びが言えれるという信心にならせて頂いたら、ね。そこから、新たな信心の展開があると、私は思うのでございます。ね。どうぞ、勿論、困らんで済むという事は、素晴らしい事ですから、ね。どのような場合であっても、困らんで済む信心を身に付けて行きたいと思う。どうぞ。